論理が使える範囲の限界を特定し,真理の概念がどういうことかを特定しようとするなら,言語とメタ言語との区別は重大である。この区別がないと,論理は混乱に陥り,自分が立てようとするどんな命題でも「真」になる。大地は平らだということを証明したいとするなら,次のような文を考えるだけでいい。
この文全体が偽であるか,大地が平らであるか,いずれかである。
この文は真か偽かいずれかである。それが偽だとすれば,それが言っているところによって,大地は平らでなければならない[両方とも成り立つか,両方とも成り立たないか,いずれかになるが,前提から前半が成り立つ以上,後半も成り立つ]。真であれば,最初の命題「この文全体が偽である」か,第二の命題「大地は平らである」のいずれかが真でなければならない。ところが今は文全体が真であると仮定しているので,第1の可能性は排除され,したがって第2の可能性の方が真とならなければならない。したがって,大地は平らなのだ。さらにすごいことに,「大地は平らである」の代わりに,何でも好きな命題を入れることができ,同じ推論によって,その好きな命題が真であることが証明できる。
ポーランドの数学者アルフレッド・タルスキーが,1939年,やっとこの気がかりな状況に方をつけた。特定の論理的言語で表された命題は,その言語の外に出て,そのメタ言語の1つを使わないことには,真とも偽とも呼べないのである。世界についてのある命題が真であると言いたければ,メタ言語を使わなければならない。タルスキーは,ある命題が「真」だと言われるのはどういう意味なのかということを決定する明瞭な方法を唱えた。「大地は平らである」という命題が真であるのは,大地が実際に平らな場合であり,その場合に限るとした。それはつまり,「 」でくくった地球についての文が真であるのは,その文にある「大地」という言葉を,意味を変えることなく実際のこの惑星に置き換えることによって,大地が実際に平らであることを示すことができる場合であり,その場合に限るということである。そうすると,「 」にくくった文を論じ,それが真であるかどうかを論じ,地理的な証拠と付き合わせることができるが,それを「 」にくくらないメタ言語において行なうまでは,「 」でくくられた文は意味を持たない。
この細かい区別は,「この文は偽である」などの昔からある言語上のパラドックスを一掃してしまう。それは言語とメタ言語とを混同しているだけだということがわかる。先の「この文全体が偽であるか,大地が平らであるか,いずれかである」という例にも同じ欠陥が存在する。それは命題と命題についての(メタ)命題とをごっちゃにしているのである。やはり大地は平らではない。
この安心できる結論には,さらに驚くべき副産物がある。絶対の真理というのはありえないのである。ある言語の内部で行える,その体型内部で真と言って意味することを定めるような演繹(証明)はあるが,その上にそびえるメタ言語の階層にはきりがなく,それぞれにそれぞれで真と言われるものの一定の領域がある。タルスキーが示したのは,真や偽について形式的な定義は立てられないということである。真はそれを表現するために用いられる言語と同じ次元において厳密に定義することはできず,メタ言語においてしか定義できないのである。
ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.317-319
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)
PR