1932年に分子膜の研究でノーベル賞を受賞した偉大な化学者,アーヴィング・ラングミュアは,1934年,デューク大学の心理学者J.B.ラインのESP(超感覚的知覚)研究の論文を読んだ。ラングミュアは,自身が呼ぶところの「病的科学——事実でないことがらの科学」に,ESPがあてはまることに興味をおぼえた。
「ESPの実践者はウソつきではない」とラングミュアは論じた。「かれらはただ,自分自身をだましているだけだ」と。ラングミュアにとって,ESPはまぎれもなく病的科学の典型であった。
ラングミュアは,病的科学の特徴として「証拠としてあげられたデータが,つねに検出可能な限界ぎりぎりの微量でしかない」ことを指摘した。これはどういう意味かというと,カクテルパーティのたとえ話を思い出してもらいたい。「検出可能な限界ぎりぎりの微量」とは,周囲が騒がしく相手がなにをいっているのかほとんど聞きとれない状態で聞きとった話を指す。そうした状況では,相手がいったことを簡単に誤解してしまう。
「コインに思いをこめてトスすれば,オモテが出るかウラが出るかを左右できる」と主張する人間がいるとしよう。報告書に記されている成功率は,50パーセントでなく51パーセントであろうことは容易に想像がつく。
そうした単なる偶然による平均値との差が,予想された範囲にすぎないことを合理的に納得するためには,気が遠くなるほど何回もコインを投げる実験をくりかえさなければならない。だが,そこでまた新たな問題が生ずる。実験に設計上の欠陥があるとすれば——コインのオモテとウラがわずかに非対称であったため,オモテのほうがでやすかったら——多数の実験をおこなった結果はまったくちがうものになる。実験をなにより重視する実験主義者が,51パーセントという成功率を測定したら,まず実験の不備を疑うだろう。実験手順のどこかに欠陥があったにちがいないと,必死になってミスをさがそうとするだろう。しかし,実験を軽視する人々は,51パーセントという実験結果をそのままうけいれ,実験の欠陥をさがそうとはしない。そして,「人は意志の力でコインの裏表を決定できる」という結論をだす。だからこそ,わずかな統計上の賽に基づいた科学的主張にはなんの重みもないのである。
ロバート・L・パーク 栗木さつき(訳) (2001). わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス 主婦の友社 pp.89-90
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