今から1400年も前の隋代に最初に科挙を行なった目的は,これによって前代の世襲的な貴族政治に打撃を与え,天子の独裁権力を確立するにあった。それ以前のいわゆる六朝時代(3世紀から6世紀まで)は貴族勢力の黄金時代であり,世上に特権的な貴族がはびこって中央,地方の官吏の地位を独占していた。この貴族政治はある点では日本の藤原時代に似ており,ある点では日本の封建時代にも似ている。もっとも,日本の藤原時代は藤原一門が上層の官位を独り占めにしていたが,中国の六朝には世上に無数の貴族があり,それがおよそ4段階くらいにわかれてそれぞれの格式を守っていた。また封建制度下にあっては父が死ねば子がそのまま父の地位を継承するが,六朝の貴族はそうでなく,貴族子弟はその初任の地位と最後に到達しうる限界とが家格によっておおよそ定まっていただけで,子がいきなり父の死んだときの地位を受けつぐことはなかった。これらの点で両者はちがっていたのである。
しかしそういう状態だと天子の管理任用権ははなはだ狭いものになり,才能によって人物を自由に登用することができない。もし天子が従来の慣例を破って人事を行なうと,貴族出身の官僚群から手ひどく反撃を食うのである。そこで隋の初代の文帝は内乱を平定して権勢の盛んなのを利用し,従来貴族がもっていた特権,貴族なるゆえに官吏になれるという権利をひと思いに抹殺してしまい,改めて試験を行なってそれに及第した者のみを官吏有資格者とし,多数の官僚予備軍を手元に貯えておき,必要に応じて中央,地方の官吏の欠員を補充する制度を樹立したのである。これが中国における科挙の起源であった。
宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.181-182
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