ただし唐代の科挙にはまだ実際幾多の欠点がみられる。まず第1に,その採用数がはなはだ少ないことである。これは当時の中国の文化普及の範囲がきわめて狭かったことから起こる必然の結果である。まだ印刷術が実用的になっておらず,書物は手で写さねばならなかった関係上,非常に希少であると同時に高価なものであり,したがって学問に従事できる者はきわめてかぎられた範囲に止まっていたのである。
当時の官僚政治はまだ成立したばかりであり,歴史も経験も浅いために,必ずしも常にスムースに運営されたとは限らず,時に官僚間に激烈な派閥争い,党争が展開されたのであるが,科挙そのものがその原因をなしている事実も指摘される。これが第二の欠点である。前にも述べたように,科挙では試験のたびに試験官を座主と称し,合格者がみずから門生と称えて親分子分の関係を結び,また同期の合格者が互いに同年とよびあって相互扶助につとめるが,その結合があまりに強すぎると,ここに派閥が発生する。この際,試験管たる者は労せずして多くの子分を獲得することができるので,その地位がまた奪いあいになる。こうして試験官を中核とした無数の小さな派閥が出来上がるが,もし進士以外の,立場のすっかりちがう勢力が出現すると,進士らは大きく団結してこれに対抗しようとする。事実,そういう党派争いがもちあがって,政権争奪を繰り返すこと40年の長きに及んだものである。進士党が天下をとれば,非進士党はことごとく中央から退けられ,非進士党が天下をとると,今度は進士党がみな中央から追い出される。そういうことを何回か繰り返し,そのたびに内治も外交もこれまでの方針をどんでん返しにするので,結局は中央政府の威厳を損ずるばかりであった。遂に当時の天子,文宗をして,外部の盗賊を征伐するのは何でもないが,朝廷内の派閥を除くのは不可能だ,と嘆息せしめたものである。
宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.185-186
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