このように学校制度がせっかく設けられながら,科挙制度を圧倒して完全にこれに代わることができなかったのは,何といっても経済的な事情からであろう。教育は,元来,金のかかるものなのである。南宋に入ると,太学は規模の点では北宗に比べてずっと縮小されている。政府はえてして教育のような,すぐ目前に効果の現れない仕事には金を出したがらないものである。
以後,中国の歴史は教育に関しては,時代の進展に対して逆方向をとった。明清時代には,中央には太学,地方には府学,県学があったが,それは名ばかりで実際の教育を行なわなかった。学校制度はかえって科挙制度の中に組み込まれてしまい,学校試は科挙の予備試験として利用されるのが実情であった。だから実際には,学校がなくなって科挙だけに還元されてしまったといっていい。科挙も金がかからぬことはないが,学校教育に比べるとずっと安くつく。非常にイージー・ゴーイングな政治が,せっかく北宗時代に芽ばえた学校教育制度をおしつぶしてしまったのである。
宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.190
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