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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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両面

 第一に科挙はだれでも受けられる,開放的な制度であることがその特長だといえる。ただし若干の例外は,たとえば祖父,父,自身の三代が特定の賤業に従事した者であってはならないなどの制約はある。しかしこれはきわめて特別の場合であって,またそれにはそれなりの理由があるので,この点をしばらく除外すれば,科挙は士・農・工・商を問わず,だれでも応ずることができるから,非常に民主的な制度だといわなければならない。
 ただこれを実際に受ける方の立場からいえば,万人が等しく科挙に応ずる権利を行使できるとはかぎらない。そこには経済的な問題があるからである。科挙は長い連続した試験の積み重ねであり,その競争もはげしいから,20代の始めに進士の栄冠をえる者はよほど運のいい方であり,30代でもそれほど遅い方とはいえない。とするとその間,絶えず勉強し続けるためには,それだけの経済的なバックが必要であって,貧乏人には到底それだけの余裕がない。また,個々の試験については別に受験料はとらないが,それに附帯した入費が大へんである。ことに田舎に住んでいる者は,郷試を受けるために省の首府へ出る往復の旅費,宿賃のほかに,試験官には謝礼,係員には祝儀がいり,宴会費や交際費も欠かすことはできない。それが進んで会試,殿試のために都まで出ていくことになると,一層費用がかさむのである。明代の後半,16世紀にはこの費用,大約銀600両であったというが,当時の銀1両で米を買うなら,今の日本の金にして1万円ほども使いでがあったであろうから,実際,当時中国の奥地から北京へ出てくることは今の世界一周ほどの大旅行であったのである。これはとても貧乏人にできることではない。いかに科挙の受験料が無料でも,あるいは少々の旅費が出ても,所詮一般人には高嶺の花で手が届かなかったわけである。
 しかしこれもまた別の見方をすることができる。いったい世の中は始めから不公平にできているので,なにも中国の科挙ばかりを咎めるわけにはいかない。教育の機会均等の原則が認められている現在でも,日本ばかりでなく世界各国で,国民一人残らず平等に教育が受けられるところなどありはしない。しかも教育は直ちに就職につながるので,あながち科挙試験に金がかかることのみを責めることはできないであろう。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.192
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