しかし一方,中国の教育制度はこの頃の欧米に比べていちじるしく立ち遅れていることは議論の余地がなかった。中国の教育制度は今から千年ほども前の宋代を頂点とし,以後はだんだん下り坂となって,衰退の一路を辿るのみであった。明清時代になって,中央に太学,地方の府県に国立学校が設けられたが,有名無実でなんら実質的な教育を行なわなかった。教育を民間に任せ放しの実情であったので,次第に時代おくれのものになり,社会の進歩に取り残されてしまった。
その民間の教育をともかくも継続させたのは科挙が存在するからであるが,この科挙が本当に役に立つ人材を抜擢するには不十分であることは,中国でも古くから指摘されていた。経学のまる暗記や,詩や文章がいったい実際の政治にどれだけ役立つであろうか。それは単に古典的な教養をためすだけにすぎない。官吏として最も大切な人物や品行は,科挙の網ではすくいあげることができない,というのが古来の科挙反対論であった。
しかしそれならどうすればよいかという段になると,他に適当な方法が見つからない。科挙は昔から行なわれてきたもので,科挙の及第者の中から立派な人物も多く出ているから,これでいいではないかという常識的な現状維持論が勝利を占めるのである。そして中国が東亜における唯一の強国として羽振りをきかしていた間はまだそれでもよかった。
ところがヨーロッパに産業革命以後の新文化が起こり,その圧力が遠く東亜に波及してくると,もう安閑としてはおれなくなった。新しい世界情勢に対応するには新しい知識,新しい技術の習得が必要である。この形成を見てとっていち早くそれに順応し,成功したのは東亜諸国の中では日本である。維新政府は1872年,学制を発布し,次々に学校をたてて欧米にのっとった新教育を始めた。以後の急速な日本の発展はこの新教育制度に負うこと多大である。
宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.203-204
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