19世紀フランスの警察は,自らの名を名乗らない身体の存在に悩まされ続けていた。それは前章で見たような,モルグに陳列された身元不明の遺体たちだけの問題ではなかった。身柄を拘束された容疑者が名を明かすのを拒めば,警察にとっては,物を言わぬ死体と事情はほとんど変わらなかった。パリの拘置所や刑務所は,そのような身元を偽る犯罪者たちの巣窟と化していたと言っても過言ではないだろう。警察はこうした状況に対処するために,「羊」と呼ばれる密偵を刑務所に送り込むこともあった。服役囚に扮した警察官の「羊」が,他の囚人仲間たちと親交を深めることにより,彼らの化けの皮を剥がして,本当の身元を突き詰めてやろうという算段であった。しかしこうした警察の苦肉の策も,「警戒心が強く,疑り深い」犯罪のプロたちの前では,さしたる成果を上げることができなかったようである。化けの皮を剥がされるのはむしろ「羊」たちの方であり,密偵が紛れ込んでいるとの情報が,早々と囚人たちの間で共有されてしまう始末だった。
橋本一径 (2010). 指紋論:心霊主義から生体認証まで 青土社 pp.92
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