私は正反対の提案をしたい。心と体の二元性を信じるのは,少しも「偶然」ではない,とあえて言おう。
世間一般には,二種類の「錯覚」が存在する。偶然に起きるものと仕組まれたもの,たまたま勘違いしてしまう場合と,仕掛けられたトリックに引っかかる場合だ。たとえば,水に差し込んだ棒が曲がって見えるときや,隣の列車が動いたときに自分の乗っている列車が動いたときに自分の乗っている列車が動いたような気がするときは,偶然の錯覚だ。私たちは,情報が不正確あるいは不完全な状況下で,推論の法則を当てはめている。しかし,だれ一人私たちをだまそうとしているわけではない。
一方,ステージで奇術師が金属製のスプーンを手で触れもせずに曲げたり,降霊会でテーブルが中に浮いたような気がしたりするのは,意図的なトリックのなせる業だ。ここでも私たちは情報が不正確あるいは不完全な状況下で推論の法則を当てはめているのかもしれない。しかし今度は,勘違いさせようとする奇術師が存在する。
さて,心と体の二元性という考えはどっちの錯覚だろう。一般に,唯物論に傾いた哲学者はこれまでずっと,第一の種類の錯覚,つまり,遺憾なものではあるかもしれないが,純粋な勘違いという立場をとってきた。しかし,もし実際は,第二の錯覚,つまり仕組まれたトリックだったとしたらどうだろう。
ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 pp.139-140.
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