アジアからアフリカに向かったバナナの種類は,初め数百種類におよんだが,数千年にわたる農業上の試行錯誤の末に,その数はわずか十種から二十種にまで絞りこまれた。アフリカに到達するころには,遺伝子プールはひと桁台になっていた。この二千年では,アフリカン・プランテーションと東アフリカのハイランドバナナがこの大陸におけるたった二種類のバナナだ。
もしそのまま事態が変わっていなければ,アメリカ人のシリアル・ボウルに甘いバナナが加わらなかった可能性は充分にある。しかし,西暦650年ごろ,3番目のバナナがアフリカに登場した(ちなみに,4番目のアフリカのバナナは前世紀ごろにもたらされた新しいタイプであるため,ここでは論じない)。最初の2つのバナナは長い年月にわたって根を下ろしているあいだに独自の遺伝的特徴を獲得したが,3番目のバナナは,中東からマレーシアにかけての,インド洋沿岸で見られるバナナに特徴がよく似ている。なかには海を渡ったものもあるかもしれないが,商人が陸路で運んできた可能性が高いと考えられている。7世紀から第1次世界大戦が始まる直前まで続いていたアラブ諸国と北アフリカ間の奴隷貿易の副産物として,多くの果物が伝わった。地域によっては,バナナはぜいたく品だった。10世紀に活躍したイラクの詩人アリ・アル=マスーディは,アーモンド,蜂蜜,バナナで作る菓子“カタイフ”のレシピにバナナを列記していた(カタイフは現在でも食べられているが,ふつうのレシピではバナナを材料にはしていない)。
アフリカで3番目のバナナは,ようやくこの果物に気づいたヨーロッパ人が,当時形成しつつあったアフリカの植民地(大西洋沿岸のギニアやセネガル,カナリア諸島など)に持ちこみ,最終的にそれが(二千万人のアフリカ人奴隷とともに)大西洋を越えてアメリカ大陸に渡ったのだ。この第3波のバナナを示す専門用語は,“インド洋コンプレックス(IOC)”だが,これには別の名前があり,中東の商人が大陸から大陸に移動するバナナとともに広めていった。分類学者のリンネはアラビア語の“mauz”を借りて,“Musa”をその属名とした。しかし,一般の人々には,誰もが好むこの果物を表わす言葉として,別のアラビア語のほうがなじみが深かったので,そちらがより頻繁に使われるようになった。その言葉とは,英語に翻訳すると「指」を意味する“banan”である。
ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.71-72
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