マルクス主義や社会主義は,明治時代から紹介され,知られてはいた。しかし,河上肇などの一部を除けば,まだまだ大学人の思想にはなりえていなかった。明治38年,河上肇は『読売新聞』に「社会主義評論」を連載したが,当の学生たちは,この論文の東京帝大教授攻撃——1章でみた七博士が対露関係で政府を批判しながらも,大学教授の椅子にしがみついていることへの非難(「京童のいへりき,本郷の大火事。火炎万丈天を焦がさんとするの勢ありしも,文部の一ポンプ容易く之を消防し得たりと」)——を痛快がるだけで,「議論の本質たる社会主義に共鳴するものは殆どなかった」(吉野作造「日本学生運動史」)。森戸辰男も大正時代半ばまでの社会主義研究についてつぎのように顧みている。当時,社会主義の研究は,「民間の『主義者』によるのであって,大学を中心とする公の学界からは,ほとんどタブーとされていた」(「経済学部発足の頃」),と。
したがって,大正時代半ばまでの社会主義者やマルクス主義者は,しばしば「ごろつき」や「無頼漢」の代名詞だった。せいぜいが,「労働者あがり」の教養や社会運動とみなされがちだった。マルクス主義が大学生や旧制高校生を中心に学歴エリート集団にひろがりはじめたのは,大森の第一高等学校卒業前後の大正時代半ばからだった。
竹内 洋 (2001). 大学という病:東大紛擾と教授群像 中央公論新社 pp.30
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