しかし,文学部生の学生全体に占める割合はそれほど多くはなかった。戦前の帝国大学で文学部があったのは,東京帝大と京都帝大だけである。東北帝大と九州帝大においては法文学部として存在しただけである。しかも,学生数全体に占める文学部生の割合も少なかった。東大の場合は,1918(大正7)年までの文科大学卒業生数2061人。法科大学卒業生(7557人)の3分の1にも満たない。東大全体(1万9200人)の11パーセント弱である。同じことは京大についてのいえる。文学部生の割合は京大卒業生の8パーセント弱にすぎなかった。
私立では,文学部は,早くから東京専門学校(早稲田大学),哲学館(東洋大学),國學院などにあったが,そこでも法,商,政治,経済などの社会科学系が圧倒した。文学部系学生の割合は少なかった。1918年(大正7)年の私立専門学校在学生の専攻割合は,63パーセントが法律・政治・経済などの社会科学系である。文学系の在学生は8パーセントにすぎなかった。
戦後,新制国立大学の創設や私立大学の創設,新設学部の設置があいついだ。とくに1960−75年の高等教育の拡大は目覚ましかった。このころもっとも設置数が多かったのは文学部である。それは,女子の高等教育進学率の増大による受け皿になったことや文学部の設置基準が他の学部に比して緩い基準だったことによる。しかし,文学部の設置は,新設大学や単科大学,女子大学に多かった。小規模大学に新設されることが多かったのである。だから,大学生全体に占める文学部生のシェアはそれほど伸びたわけではない。1965年でみると,4年制大学生数全体(約90万人)の10パーセント程度のものだった。しかし,学生数全体に占める割合がそれほど大きくなくても,いや大きくなかったからこそ,文学部はアカデミズムや教養主義の奥の院だった。
竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.88-89
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