それから約半年後,翌年(1914)8月,岩波は,漱石邸を訪れた。『東京朝日新聞』に連載されていた『こゝろ』をなんとか出版したいと,懇願した。漱石はすでに著名作家である。これまでの小説も春陽堂や大倉書店などの有名出版社から出されている。『こゝろ』の出版も引く手あまただった。看板揮毫の縁もあったろうが,漱石は,このさい自費出版で出してみてもよいと思うようになった。自費出版となれば,自分でおもいどおりの装丁ができるという楽しみがあったからであろう。さらに,自費出版のほうが著者の実入りがよいという判断もあったかもしれない。
話がまとまる。最初の費用は漱石がもち,出版費用償却後に利益を折半するという約束だった。岩波は出版が可能になったことで感激した。用紙をはじめ最高の材料を使って立派な本にしようとした。採算を考えない凝りすぎを漱石に何回も注意されるほどのいれ込みようだった。こうして岩波書店は,スーパー作家夏目漱石の作品を出版するという劇的で好運なはじまりをもつことができた。『こゝろ』につづいて,『硝子戸の中』『道草』『明暗』などが出版された。漱石の作品と全集(第1次は1917[大正6]年,第2次は1919年,第3次は1924年)は,岩波書店のドル箱になった。同時に,岩波書店の文化威信を大いに高めることになった。
竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.139-140
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