教養主義の輝きを,農村を後背地としながら,そこからの広闊な世界への飛翔感にあると述べた。だが,戦前において都市と農村の文化格差がどのようなものだったかは,いまとなっては想像しにくいものである。文化人類学者祖父江孝男の筆を借りてみておこう。
祖父江は1935(昭和10)年ころの都市と農村の姿を生き生きと描いている。祖父江の父親は東京の下町で医院を開業していた。往診用に当時としては珍しい自家用車があった。安見のときには家族で関東各地にドライブしていた。祖父江はそのころ小学校低学年であったが,よく憶えているのは,田舎道の両側に並んでいる貧しい農家の姿である,という。障子はビリビリに破れ,黒く煤けた紙が垂れ下がっていた。車を止めると,泥だらけの顔をし鼻をたらした和服の子供が駆け寄ってきた。洋服を着た家族を頭の先から足の先までただもう眺め回したのである。
このころの村の子供たちからみれば,「都会人は遠く離れた別世界からやって来た,顔かたちも服装も異なった,外国人のごとき存在だったのであろう」。また当時,家にいた女中さんのことも書いている。彼女たちはランプと井戸水で生活していた農村からやってきたから,電灯や水道,電話の扱いに慣れるのにかなりの時間を使った(『日本人はどう変わったのか』),と。ついこの間まで都会と農村の間には,祖父江が描いたような大きな経済的文化的格差があった。
竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.172-173
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