このようにみてくると,大学紛争の解釈も別様になる。わたしはいまでもあの大学紛争をとても不思議におもう。この点については,別のところ(『学歴貴族の栄光と挫折』など)に書いたが,大事なことなので少し補筆しながらくりかえすことをお許しいただきたい。
なぜ不思議かというと,紛争の担い手だった大学生は「学問とはなにか」「学者や知識人の責任とはなにか」と,激しく問うた。しかしさきほどみたように,大学進学率は同年齢の20パーセントを超え,30パーセントに近づこうとしていた。大学生の地位も大幅に低下していたし,卒業後の進路はそれまでの幹部社員や知的専門職ではなく,ただのサラリーマン予備軍になりはじめていた。そんな大学生が,知識人とはなにか,学問する者の使命と責任をとことんつきつめようとしたところが腑に落ちないのである。
あの問いかけは,大学生がただの人やただのサラリーマン予備軍になってしまった不安と憤怒に原因があった。そして,大学紛争世代は,経済の高度成長による国民所得の増大を背景にした大学第一世代,つまり親は大卒でなく,はじめて大卒の学歴をもつ世代が多かったことを解釈の補助線とすると,了解しやすくなる。
大学紛争世代である団塊の世代(1946−50年生まれ)の高等教育進学率は約22パーセント。かれらの親を1916−20年生まれとすると,この世代の高等教育進学率は約6パーセント。そこで,大まかな計算ではあるが,つぎのように試算をしてみよう。1916−20年生まれの高等教育卒業者とそうでない者との子供数が同じとし,高等教育卒業者の子供がすべて高等教育に進学したと仮定すると,団塊世代の大学進学率22パーセントのうち6パーセント,つまり大学生の27パーセントは,親が高等教育卒業者ということになる。そして,73パーセントの大学生は,親が高等教育を経ていない高等教育一世になる。
竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.208-209
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