大学紛争後の大学生たちはこう悟った。学歴エリート文化である特権的教養主義は知識人と大学教授の自己維持や自己拡張にのせられるだけのこと,大衆的サラリーマンが未来であるわれわれが収益を見込んで投資する文化資本ではない,と。
かつては教養主義の啓蒙的・進歩的機能が強いぶん,教養主義の(エリートのノン・エリートに対する)境界の維持と差異化の機能が目に見えにくかった。たとえ目にみえても自明で会議の対象とはならなかった。教養知が技術知と乖離し,同時に,啓蒙的・進歩的機能を果たさなくなることによって,こうした教養主義の隠れた部分,あるいは不純な部分が前景化したのである。
マス高等教育の中の大学生にとっていまや教養主義は,その差異化機能だけが透けて見えてくる。あるいは,教養の多寡によって優劣がもたらされる教養の象徴的暴力機能が露呈してくる。いや大衆的サラリーマンが未来であるかれらにとって,教養の差異化機能や象徴的暴力さえ空々しいものになってしまった。
竹内 洋 (2003). 教養主義の没落 中央公論新社 pp.214
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