2000年,デンマークのトラップホルト美術館は,チリのアーティスト,マルコ・エバリスティ[自分の体から摘出した脂肪を料理して友人に振るまうなど,奇矯な行動が多い]に出展を依頼した。そこで彼が出展した作品は,10組の電動ミキサーのなかでキンギョが泳いでいる,というものだった。
来場者はミキサーのスイッチを入れるように勧められていた。このアーティストの説明によれば,来場者が良心と格闘するよう意図して作品を製作したとのことだった。その結果,何匹かのキンギョはジュースと化し,展示責任者は動物虐待の罪で訴えられた。だが最終的には無罪の判決が下った。
その8年後,今度はロンドンの現代美術館テートモダンで,再び魚をめぐる論争が巻き起こった。ブラジルのアーティスト,シウド・メイレリスは,生きた魚を展示したが,13週間が経過すると,当初は55匹いた魚のほぼ4分の1が死んでいた。展示に生きた魚を用いたことに対して,さまざまな動物保護団体が,感覚力をもつ動物を美術作品の一部として展示するのは不適切だとして抗議した。
これらの展示に対する世間の反応は興味深い。ことにエバリスティのスプラッターホラーばりのコンセプトに対する反応は特筆に値する。彼の作品は,魚をジュースにする機会を来場者に提供した。実際にそうすることを選択した来場者がいたのは明らかであり,それに対する抗議が相次いだ。だが来場者の多くは,そのような形態で魚を殺すのは無意味な残虐行為だと考えたのだ。
私たちの多くは,自分が不適切と考えている行為に対して本能的な嫌悪を感じる。それと同種の本能的な感覚によって,鳥類と哺乳類には痛みの経験によって苦しむ能力があると感じ,それらの動物の福祉に気を配る。つまり私たちは,どうにかしてこれらの温血動物の立場に身を置けるのだ。
ところが話が魚類になると,人によって意見は大きく分かれる。ミキサーのスイッチを入れられる人もいれば,そうでない人もいるのである。
ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.156-157
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