「魚はそれほど重要ではない」という考えを助長し続けてきたのは,皮肉にも現代の生物学者が使ってきた用語にも関係している。たとえば生物学者はときとして,進化の歴史のなかでより古い起源を持つ動物に言及する際には,「より低次の」,あるいは「原始的な」などの表現を用い,より最近の進化の歴史のなかで登場した動物に言及するときには,「より高次の」,あるいは「現代の」などという言い方をしてきた。
実際のところ,かくいう私もちょっと前にそう表現した。そのような表現方法が,魚の知覚に関して誤った印象を与える結果につながるとわかっていても,正直なところそうせずにはいられないと感じている。進化の早い段階で登場した動物ほど単純で,環境にうまく適応していないという誤った印象を与える点で,そのような表現は人を欺く。進化における成功の度合いは,その生物の登場の時期や複雑さによって測られるべきではなく,適応性,多様性,存続期間によってとらえられるべきであろう。現存する魚の種の大多数は,実際に若い。つまり,進化の歴史のなかで最近になって登場したということだ。そのような魚を指して「古い」,「原始的な」,「低次の」などということは,そもそもまちがっている。もちろんそれらの魚も,はるか昔に出現した祖先の子孫だという点にまちがいはないが,その事情は私たち人間についてもまったく変わらない。
ヴィクトリア・ブレイスウェイト 高橋 洋(訳) (2012). 魚は痛みを感じるか? 紀伊國屋書店 pp.189-190
PR