より卑近な例を挙げよう。象の群れが中で暴れているぞと声を限りに叫びながら講堂から駆け出してきた男に出くわしたとしよう。これを聞いてどう対処するか,特にこの主張の「原因」をどう評価するかは,実際に部屋の中で象の群れが暴れているか否かに大きく依存すべきことは明らかにみえる。いや,外的実在と介在物ぬきの直接的な接触ができない以上,正確には,われわれが他の人たちといっしょに(用心して)部屋を覗いたときに,象の群れが暴れているのが見えるか,その音が聞こえるか,あるいは,群れが部屋を出る前に引き起こしたのかもしれない損傷がみつかるか否かというべきだろう。そのような象の群れの証拠がみつかれば,観察されたこと全体のもっともありそうな説明は,実際に講堂で象の群れが暴れているのである(あるいは,いたのであり),先ほどの男はそれを見たか聞いて驚愕のあまり(この状況ではわれわれも彼と同じに感じて当然だろう)急いで部屋から逃げ出し,われわれが聞いた叫び声をあげた,ということである。そこで,われわれの反応は警察と動物園に電話をかけるということになる。他方,われわれの観察で講堂の中に象の証拠がみつからなければ,もっともありそうな説明は,実際は部屋の中に暴れている象の群れはいなかったのであって,この男は(内因的な,あるいは,薬物による)精神異常のために象がいると妄想し,その妄想が原因で部屋を急いで飛び出してきて,われわれが聞いた叫び声をあげた,ということになる。そこで,われわれは警察と精神病院に電話をかけることとなる。バーンズとブルアも,社会学者や哲学者向けの雑誌にどんなことを書いているにしても,実生活で同じことをするだろうことは請け合っていい。
アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.123.
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