日本に住みながら,頻繁に韓国を訪問していた私は,日本と韓国では,社会的環境が著しく異なることに気がついた。何か月も日本に幽閉されたあとで,ソウルの街を歩いてみると,まるで新鮮な酸素をおもいっきり吸いこんだような気分になる。韓国人は日本人よりはるかに話し好きで,感情表現が豊かなのだ。韓国人は起業家精神にあふれていて,危険を恐れないが,日本人は危険から身を守ろうとする。韓国人は失敗について個人の責任を認めるようだが,日本人は責任を回避しようとする。韓国市民はよく抗議デモを行って,企業統治の強化や,責任の明確化を求める。対照的に,日本の市民社会——政府と商業界の中間に位置する政治的空間——は,休止状態にあり,補助金で囲いこまれ,政府に服従している。韓国では愛国精神や国家への義務という考え方から,大きな市民運動が起きることがある。日本では,愛国精神をあらわすふつうの行動や表現——白地に赤の日の丸を掲げたり,国歌である「君が代」を歌うこと——が,けしからぬこと,あるいは物議をかもすこととみなされている。ルイ・ヴィトンのハンドバッグを買うためなら何時間も辛抱強く行列に並ぶ同じ日本人が,国を救うために金やその他の貴金属を供出しようと,凍てつく冬の日に銀行の前に行列を作るところを,私は想像できない。
マイケル・ジーレンジガー 河野純治(訳) (2007). ひきこもりの国:なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか 光文社 pp.317-318
PR