このような攻撃を分析するために,「科学」という言葉の少なくとも4つの異なった意味を区別する必要がある。世界の合理的な理解を目指した知的行為としての科学。受け入れられている理論的・実験的結論の集まりとしての科学。独自の流儀,制度,より広い社会とのつながりをもった社会的集団を括る存在としての科学。そして,応用科学や(科学と混同されることの多い)科学技術。これらの内の1つの意味での「科学」についての正当な批判が,別の意味での科学を攻撃する議論と受け取られることがあまりに多い。社会的な制度としての科学が政治的,経済的,軍事的な権力と結びついており,科学者がしばしば社会的に有害な役割を果たすことは否定できない。科学技術は,いろいろな結果を---ときには悲惨な結果を---もたらし,また,もっとも熱烈な技術信奉者がいつも約束する奇跡的な問題解決を生みだすのは稀だというのも本当である。最後に,知識の集まりとしての科学は,常に間違いを犯しうるものであり,科学者の間違いが様々な社会的,政治的,哲学的,宗教的な偏見からくることもある。上の4つのいずれかの意味での科学への合理的な批判はよいことだと思う。特に,(少なくとも多いに納得できる)知識の集まりとしての科学への正当な批判は,一般に,次のような標準的な型を取る。まず最初に,よい科学の満たすべき基準に照らしたとき,問題にしている研究には欠陥があることを通常の科学的な議論によって示す。それが終わった後,そしてそのときのみ,その科学者たちが何らかの社会的な偏見(それは無意識のものかもしれない)をもっていたがために,よい科学の基準を破ることになってしまったことを説明しようとするのだ。最初から2つ目のタイプの批判を行いたくなるかもしれないが,それをすると批判の力はほとんど失われてしまう。
アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.268-269.
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