最近のゼミの学生に,自分の持ち物でなんらかの価値があるものを挙げるよう求めた。するとある女子学生が恥ずかしそうに,コメディアンのジェリー・サインフェルドがかつて着たTシャツだと打ち明けた。彼女はそれをオークション・サイトのイーベイで買ったのだという。サインフェルドが一度袖を通したTシャツには価値があるという彼女の言葉に,全員が同意した。ただし,正確にどのような価値かということは説明できなかった。「でも,ジェリー・サインフェルドが着たんだから」というのが,彼らの唯一の根拠だった。
「では,ジェリー・サインフェルドがそれを着たことを知らなかったら?」私は尋ねた。「そのTシャツになにか特別な価値があるだろうか?」
「ない,まったくない」というのが彼らの答えだった。
「では,価値というのは君たちの頭の中にあるもので,Tシャツ自体にはないのではないか?」
学生たちは,サインフェルドの本質のようなものがTシャツにつながっているのだ,と言って反論した。たとえそのTシャツが洗濯されたとしても,彼の一部はそこに残っているのだ,と。
「それが正しいとしても,だから何だ?なぜそのTシャツに価値が生まれるのだろう?」私は重ねて尋ねた。
「それを着た人がジェリー・サインフェルドとつながるからですよ」学生たちは答えた。
ゼミの後で,私は思った。これこそ,アイリーンがしていたことではないだろうか。おそらく彼女は自分のモノを通して世界とつながろうとしていたのだろう。そして彼女にとっては,モノ1つひとつがジェリー・サインフェルドのTシャツのようなものだった。それらのおかげで,アイリーンは自分自身よりも大きな何かとつながることができたのだ。自分のアイデンティティを広げ,人生をより意味のあるものにすることが。彼女が価値を置いていたのはモノそのものではなく,モノが象徴する何かだったのだろう。そして私たちが有名人の衣服や,ベルリンの壁の欠片,タイタニック号のデッキチェア,あるいは古新聞を5トンも集めるのは,みな同じことだ。あるモノが象徴する人物または出来事が魔法のようにそこから離れ,私たちの一部になるのである。
ランディ・O・フロスト ゲイル・スティケティー 春日井晶子(訳) (2012). ホーダー:捨てられない・片付けられない病 日経ナショナルジオグラフィック社 pp.61-62
(Frost, R. O. & Steketee, G. (2010). Stuff Boston: Houghton Mifflin Harcourt)
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