自殺が衝動的(自己コントロールの問題)であることをいちばんよく示しているのは,英国で天然ガスが導入されたときの出来事だろう。英国では長年,安くて豊かな石炭ガスが使われていたが,石炭ガスは一酸化炭素が多いので,ドアや窓が閉めきられていると不幸な結果を招いた。1950年代末には自殺者の半数近くがガス自殺だった。1963年には詩人のシルヴィア・プラスがロンドンの自宅で,ガスを出したオーヴンに頭を突っ込んで自殺している。ところが1970年代初めに天然ガスへの転換がゆきわたると,英国の自殺率は3分の1近くも低下し,その後も低いまま留まっている。人々はほかの手段を探して自殺しようとはしなかったわけだ。石炭ガスはあまりにも手軽だったので,ふと何もかもおしまいにしたくなった人たちは,どこかへ出かけたり何かを購入しなくても簡単に自殺を決行できた。これから繰り返し見ていくように,自己コントロールの問題ではスピードが決め手になる。だから,わずかな手間や面倒が生命を救う可能性があるのだ。
ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.50
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