「責任」という概念は,「道徳」や「法」という概念と比べるとかなり曖昧です。それはどうしてかというと,「責任を果たさなくてはならない」と考えたり,あるいは「責任をとれ」と言われたりする場合,そこに必ずと言ってよいほど範囲を確定できない要素が入り込むからです。この不確定要素はどこから来るのか。
それは,そもそも人間というものが,つねに取り返しのつかない過去と予測のつかない未来とを,現在に引き寄せつつ生きている存在であることによるのではないかと私は考えました。この存在論的なあり方は,あらゆる人間にとって普遍ですから,そうである限り,「責任」概念は,本質的に不条理なものとしてできあがっていることになります。
人が死んでしまったから責任をとれと言われても,とりようがありません。「目には目を」の原則を貫いたからといって,死んだ人が帰ってくるわけではありませんからね。
また,あらかじめ百パーセント責任をとれるように,起こりうる未来をすべて予測しておけなどといわれても,そんなことは無理です。
それから,人はいつも理性的な存在として行為しているわけではありません。ところが,責任について書かれたものを見ると,ほとんど,個人がある理性的な意図から行為におよんだという想定のもとに考えられています。しかし,不作為そのものに対して責任を問われる場合もありますし,何となくボーッとしているうちに何かが起きてしまったとか,無意識の行動としか考えられない振る舞いに対しても責任が問われます。人間は,むしろ無反省な状態で互いにかかわっていることのほうが圧倒的に多いにもかかわらず,それでもその結果を問われます。
一人の行為なり作為,不作為,さらに何となくそこに居合わせたというような状態は,それだけで,時間的にも空間的にも人間関係を流れわたって,しだいに波及効果をおよぼしていく。互いに影響をおよぼし合う関係になっているということ。この事実も,だれが,だれに対して,どういう責任をとるのかを確定しようとするときに,たいへんな難題となって立ちはだかります。
小浜逸郎 2005 「責任」はだれにあるのか PHP新書 Pp.209-211
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