現代生活にはさまざまな誘惑や要求があって,人類が進化してきた環境よりもはるかに複雑(かつ敵対的)な場所になっている。これは良いことだ。人類が進化してきた環境におかれたら,現代人はとっくに生命を落としていただろう。だが現代生活の短所として,自己コントロールに対する圧力がはるかに大きくなった。理由はノーベル賞受賞者の動物行動学者ニコラス・ティンバーゲンが「超正常刺激」と呼んだものにある。たとえばティンバーゲンは動物にとってつがいの相手の魅力は何なのかを調べ,その特徴を過剰に協調した「おとり」を作った。するとこの「おとり」のほうが本物よりも魅力的であることがわかった。巣から持ち出された卵を取り戻す本能があるガンは,それらしく作ってあればバレーボールを巣に運び込もうとした。また雛に餌を運ぶ小鳥は,本物よりも色彩が強烈で大きくくちばしを広げる「おとり」に先に餌を与えようとした。
わたしたちはいま,そういう「超正常刺激」の世界に住んでいる。豊かな国では「超正常」な魅力をもつ報酬(すごく甘いラッテや不自然に大きな胸,やり始めたら止まらないコンピュータゲームなど)が本能を刺激するが,その誘惑の力はこれまでの進化では本能が太刀打ちできないほど強力だ。砂糖やコカインからガソリンまで,相対的に安価な精製製品は,わたしたちと本能のあいだを隔てているのが意志力という薄い皮膜でしかない,いやもっと薄い「気づき」という皮膜でしかないことを意味している。
ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.189-190
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