民主主義は自己コントロールにつきものの基本的な矛盾に苦しめられている。民主主義は自己コントロールに依存し,自己コントロールを強化しつつ,同時に自己コントロールを蝕んでいる。その意味では資本主義によく似ている。どちらもそれぞれが寄って立つ抑制と計算を推進しつつ,蝕んでもいるのだ。だが民主主義の考え方そのものが,市民の側にあるかたちの自律が存在することを前提としている。そして理論的には,民主的に選出された政府は,あくまで人々が自己の最善の利益のために努力することを助ける手段であるべきなのだ。まちがってはいけない。個人の意志力が届かない真空領域ができれば,国家とその代理がその領域を支配するだろう。自由に自制がともなわない場合には,確立された民主主義国家の市民といえども市民的自由の侵害を受け入れることになる。
だから,かつては自由と同じく自制心で知られた英国で,まるでオーウェルの世界のように400万台以上の(犯罪増加に寄って育てられた悪の花である)監視カメラが設置されて,毎日何度も市民の姿を撮影する事態になる。英国ではジェレミー・ベンサムの言うパノプティコンの巨大版と化したのかもしれない。パノプティコンとは,囚人からは見えない看守がいつでもどの囚人でも監視することができる円形の監獄のことで,見られているかどうかとは関係なく,いつでも監視下に置かれていると思うしかない。一方,アメリカでは使用者が求職者に履歴書だけでなく尿のドラッグ検査まで要求する。どちらにしても間違った政策が実施されているとしか思えないが,しかしこれらの政策は真空状態で生まれたのではないし,犯罪とドラッグ使用の結果として(言い換えれば,自己規制の欠如のせいで)市民的な自由の少なくとも一部が制約されたと言うべきだろう。エドマンド・バークは1791年に「人々が享受する市民的自由は,人々が自らの欲望にかける倫理的な鎖と正比例する」と言った。
ダニエル・アクスト 吉田利子(訳) (2011). なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史 NTT出版 pp.318-319
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