当時は,若者たちが教育の締めくくりとして欧州文化に触れる旅行に出た,大旅行時代だった。彼らは古典的な概念にかぶれて帰ってくると,自分の屋敷や庭園をプーサンの絵のようにしたがった。そしてローマの神殿を彷彿させる新古典主義の屋敷を建て,“可能性のブラウン”などの造園家を雇っては,ただの田園風景を技巧的かつ古典的な田園風景に変えていった。
そんな造園ブームの頂点にいたのが,“可能性のブラウン”だとすれば,その山の下草に潜んでいたのが,プロの隠遁者として雇われた者たちだった。というのも,自分なりのアルカディアを作るには,人生のはかなさや富のむなしさを瞑想する風雅で賢い苦行者が庭園の隅にうろついていなければ,その景色は完成しないからだ。
しかし18世紀のその時代,本物の隠遁者など,そうそういるものではなかったし,本物の苦行者は決して安くは手に入らなかった。だが,この究極の新古典主義的装飾品がどうしても欲しかった地主たちは,奇人や知的障害者,詩人,あるいは経済的に追いつめられた者たちを雇い,この役を演じさせたのである。結局,この流行は1740年ごろからおよそ100年ものあいだ続いた。シュールズベリにほど近いホークストーン・パークにも,そのような苦行者がひとりいたが,1830年,世間の圧力に屈したサー・リチャード・ヒルは,彼との契約を解除し,代わりに苦行者の人形を置いたのだった。
トニー・ロビンソン&デイヴィッド・ウィルコック 日暮雅道&林啓恵(訳) (2007). 図説「最悪」の仕事の歴史 原書房 pp.233-234
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