実を言うと,私たちは,うまくいったり,役に立ったり,効果的だったりしたことはほとんど何でも「賢い(インテリジェント)」といいがちだ。何かを「愚かな(スチューピッド)」と呼ぶとき,嫌いを少し超えていることを意味していることもある(「いこのいまいましい(スチューピッド)雨がうっとうしい」)。車の製造業者は自分たちの製品は車輪の上の知性(インテリジェンス)だと言う。小さな女の子が習いたての童謡を暗誦するとき,彼女を賢い(インテリジェント)と言う。確かに,脳がすることは,虫の知能(インテリジェンス)からパーティのホストあるいは数学者の知能(インテリジェンス)まですべて知能(インテリジェンス)のいち携帯と言えるかもしれない。
私見では,日常概念の「本質をつかもうとする」ことは科学にとって後退だ。私たちは日常概念は,あいまいで,定義が不明確で,どうにでも取れると思い,実際に使えるものと確実なものを生み出す系統的な観察を期待する。しかし,心理学が注意や記憶,知能などの概念の本質を見つけようと試みるのは,土,水,火,空気という科学以前の元素を思い起こさせる。それは,化学者が,周期表を確立してから,目を凝らしながらそれを見て,「ところで,土,水,火,空気はどこにあるのだろう?」と尋ねるようなものだ。
ジョン・ダンカン 田淵健太(訳) (2011). 知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源 早川書房 pp.46-47
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