朝鮮戦争特需が支えた神武景気によって経済復興を果たした昭和三十年代は,日本人が敗戦から立ち直り,自信を取り戻そうとしていた時代だった。それと歩調を合わせるように,大学所属の研究者や学生らによる「海外学術調査」が盛んになる。その先頭を切ったのは今西錦司を中心とする京都大学の人類学者たちであった。
今西らが確立したのは,大学の研究室を母体として,民族学(文化人類学)と考古学・地質学・植物学の学者陣と,登山家・報道カメラマンらとの合同学術遠征隊を組織し,新聞社の後援で世界中の<秘境>に旅立つという海外学術調査のフォーマットである。
この大学とマスメディアとの蜜月時代は,海外学術調査には国庫からの補助がないために常に外部にスポンサーを探さざるをえなかった大学人と,外貨割り当ての制限によって自由な海外渡航がほぼ不可能だった報道人との利害の一致によって成立していた。学者側は新聞社のスポンサードによって海外学術調査が可能になり,新聞社は調査団に自社もしくは系列社の撮影隊を同行させることで独自の海外取材が可能になったのである。
さらに新聞社は,映画・出版・展覧会・講演会などの興行権と同時に,学術調査という「文化活動」のPRを通して広告収入や新聞購読者数の増加をも見込んでいた。海外遠征隊の動向は逐一,後援社の新聞や雑誌で報道された。その成果は帰国後,一般向け書籍や写真集として刊行され,また劇場用ドキュメンタリー映画やデパートでの展示会・講演会となって全国を巡り,多くの「大衆」にめくるめく海外の<秘境>体験を分け与えた。<秘境>ブームは,こうした「学術調査=探検」のリアリティを背景に成立したのである。
飯倉義之 (2009). 美しい地球の<秘境>—<オカルト>の揺藍としての1960年代<秘境>ブーム— 吉田司雄(編著) オカルトの惑星—1980年代,もう一つの世界地図— 青弓社 pp.19-39
PR