だが,平安貴族の日常生活を取り囲む日時の禁忌や法学の禁忌が膨大な数に上っていたことからすれば,これは,まさに当然の帰結なのではないだろうか。
当時の凶日は,人によって日付の異なる衰日だけを数えても,1年間に60ヶ日にも及んだ。これに加えて,滅門日・道虚日・五貧日・十死一生日・百鬼夜行日・復日・坎日・帰忌日・下食日・往亡日といった万人に共通する凶日が,それぞれ数ヶ月ずつも設定されていた。しかも,平安貴族の周囲には,ほとんど常に何らかの方忌があった。
したがって,何かの日取りを決めるとき,それには不向きな凶日やそれと抵触する方忌のある日を除外していくと,平安貴族にはほとんど選択肢は残されなかった。いや,どうかすると,たった一つの選択肢さえ残らないこともあり,その場合には,最も支障の少ない日が「吉日」として選ばれることになった。それに比べれば,とりあえずは日時の禁忌も方角の禁忌もない日が「吉日」として扱われるというのは,まだしもの措置であろう。
このような事情であったから,平安時代の人々にとって,吉日の選定というのは,かなり厄介な作業であった。日時および方角の禁忌の全てを把握していなければ,彼らの言う意味での「吉日」を的確に選ぶことはできなかったからである。
繁田信一 (2006). 陰陽師―安倍晴明と蘆屋道満 中央公論新社 p.95
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