しかしながら,科学者は単に心理を発見し記しているだけではない。性別とジェンダーを研究している科学者も,他の人々と同じように,女性や男性がどのようなものである「はず」だということを学びながら大きくなったのだ。科学者も,たとえば,男の子は(銃を持った人形でない限り)人形で遊びたがらない,女の子はホッケーができないというようなことを耳にしてきたはずだ。人はどのようなものだ,あるいはどのようなものであるはずだという信念は,科学者がいかに研究をするか,世界をいかに見たり記述したりするか,ということに影響を及ぼしている。女の子と男の子は,まったく同じことをしているのかもしれないが,1人が女の子で,もう1人が男の子であるために,その行為は違うものとして記されるかもしれないのだ。たとえば,火で遊ぶ女の子は料理や子育てをしたいという生まれながらの願望を示している,火で遊ぶ男の子は生まれついての消防士だとか生まれつき勇敢だとか言われるかもしれない。科学者は,こうしたバイアスをもたず,「客観的」で,自分たちの考えや感情に影響されることなく世界を見ることができると誤解されていることが多い。さらに,多くの心理学者は,他人の発言をさえぎるような男性の行動を,好意的な意味で,主張性と名づけたりする。他の人からは無作法と呼ばれるかもしれないのに。このような場合に,どちらのラベルを選ぶかは,その人の経験や視点が反映される。だれもバイアスから逃れることはできない。それが真実だ。しかし,科学者は時に,自分の研究の解釈が,絶対に客観的な真実であるかのように発表する。人々は研究者が行った性差についての主張を聞き,それが真実であると思い込み,それに従って子どもたちを育てる。その子どもたちの中から性差を研究する科学者が生まれる。こうしてバイアスの循環が続くのである。
P.J.カプラン・J.B.カプラン 森永康子(訳) (2010). 認知や行動に性差はあるのか:科学的研究を批判的に読み解く 北大路書房 pp.2-3
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