中でも,ミシガン大学の研究グループでは,リチャード・ニズベット博士が中心となって,東アジア文化圏で特徴的な思考様式を「包括的思考様式」,欧米文化圏で特徴的な思考様式を「分析的思考様式」と定義することで,そうした思考様式が,私たちの物事の捉え方に影響を及ぼしているという理論を提唱している。
ここで思考様式と呼ばれているものは,世の中のありようを理解する際の考え方の筋道である。そしてその筋道は,人がある文化に生まれ落ちて,両親,親戚,友人,恋人その他多くの人たちと人間関係を結ぶ中で,ごく「あたりまえ」になった常識というものに限りなく近い。
分析的思考様式を一言でまとめれば,世の中のさまざまな物事はすべて最小の要素にまで分割することができ,その要素がどのように作用するかということや,これらの要素の間の因果関係を理解すれば,物事の本質を理解できるという信念といえる。こうしたものの考え方は,アリストテレス以来,欧米文化圏において主流の考え方であった。
こうした信念の持ち主にとっては,自分を取り囲む世界を理解するために有効なのは,物事をきっちりと切り分け,切り分けられたそれぞれの部分がどのように作用するかを個別に理解するやり方(一般に分析的と呼ばれるやり方)である。
こうした考え方を持っていれば,ある出来事に関わる瑣末なことまですべて含めて考えていては,話がややこしくなるばかりで明晰な思考とはならない。そうではなく,ある出来事の核心であるごく少数の事象だけを突き詰めて,一刀両断に判断することのほうが,むしろ望ましいと考えるに至るだろう。
これに対して日本をはじめとした東アジア文化圏で特徴的に見られる包括的思考様式を一言でまとめれば,世の中は複雑であり,物事の本質を理解するためには,関連したさまざまな要因が複雑に絡まり合っているありよう,つまり物事の全体像を把握する必要があるという信念だといえる。こうした考え方には,東アジア文化圏で花開いた,儒教的なものの考え方や,老荘思想のものの考え方,そして東アジア仏教のものの考え方が反映されていることは想像に難くない。
こうした信念の持ち主にとっては,自分を取り囲む世界を理解するためには,世界をまるごと眺める必要があるということになる。だから,物事の一部だけにとらわれて全体を見ることができないことを「木を見て森を見ず」などといって,劣った思考であると考える。そして,こうした局所的な思考をやめて,個々の部分にとらわれることなく全体像を眺め続けるというやり方こそが,物事の本質を知るのに一番有効であると考えられている。
増田貴彦 (2010). ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 講談社 pp.66-67
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