キュビズムの作品は,風景を幾何学形体そのままに無機質に描いた上に,人物画では横顔に正面から見た顔のような両目を描き,正面から眺めた顔に横から眺めた鼻を描き込んでいます。おかげで,セザンヌ風の色紙を貼り合わせたような造形がさらに分解と解体を進め,作りかけないしは壊れかけの紙製模型のようにばらばらの面の集積になってしまっています。
その最大の眼目は,絵画の画面は1つの視点から眺めた画像を描くという,従来の視覚的な文法を破壊することにありました。画面が,横顔に正面顔を合成して,あちらこちらから眺めた姿を合成しているのはそのためです。こうした表現をすることで,画面は見る者に複数の視点からの画像を提供し,あたかも見る者自身が移動して眺めているかのような印象を与えることになります。従来の絵画が,写実的な画像を写真のように静止した状態で描き出していたのに対して,タッチもあらわな形体の描写を,写真のように固定しない視点で集積していたわけです。
ちなみに,こんなとんでもない手法であるにもかかわらず,題材にヌードが選ばれたのは,アカデミー理論教育としてのデッサンがヌードを題材にしていたからです。つまり,ヌードを描く作品というものは,アカデミーの伝統に照らすならば,そのまま絵画の理論的探求を意味していたわけです。画家にとってヌードを描くことは,論文を書くようなものであり,最新の手法でヌードを描くということは最新の学説を発表することと同じような意味を持っていたわけです。が,さすがにこのピカソの「最新理論」を初めて目にした時には,盟友ブラックも仰天して,「まるで口から火のついたガソリンを吹き出す人を見るようだ」と語っています。
西岡文彦 (2012). ピカソは本当に偉いのか? 新潮社 pp. 135-136
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