潜水艦がほかの船に衝突することは,めったにない。だから,あなたも船に乗るのを恐れる必要はない。だが,このたぐいの「目は向けていても,見えていない」ことによる事故は,地上ではひんぱんに起きる。あなたも駐車場や脇道から車を出そうとして,それまで見えていなかったよその車にぶつかりかけ,あやうく急停車した経験はおありだろう。事故のあと,運転者はいつもこんなふうに言う。「ちゃんと前を見て運転していたんだ。でも,いきなり車が現れて……それまでなにも見えなかったのに」こういう状況は,脳の注意力や認知力に関する私たちの直感的理解と矛盾するので,とりわけ厄介だ。私たちは,自分には目の前のものがすべて見えると考える。だが実際には,私たちはどんな瞬間にも目の前の世界のごく一部しか意識していないのだ。目は向けていても見えないという発想は,自分の能力に関する理解とまったく相いれない。そこでこの誤った理解が,自信過剰の軽率な判断を生むことになる。
クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.26
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