大学で教えていると,私たちの研究室に学生がやってきて,自分はあんなに一生懸命勉強したのに,なぜ試験に失敗したのだろうと嘆くことがよくある。彼らは何度も教科書や授業のノートを読み返し,試験を受ける時点ではすべてよく理解したつもりだったと訴える。おそらく教材の内容のあちらこちらを頭に入れたのだろうが,知識の錯覚から,繰り返し目にして見慣れた感覚を,内容に対する真の理解と取りちがえたのだ。教科書を何度も読み返すと,実際の知識から遠ざかってしまいがちだが,馴染んだ感覚は強まり,理解したという誤解がはぐくまれる。自分自身を試してみて,はじめて自分が本当に理解したかどうかがわかる。だからこそ,教師はテストをあたえるのであり,すぐれたテストは知識の深さを確かめられる。「ロックには,シリンダーがついていますか?」という質問では,鍵の部品に関する記憶を調べることしかできない。だが,「鍵は,どのようにして開くのでしょう」という質問なら,ロックにシリンダーがついている理由と,シリンダーのはたす役割についての理解度を調べられる。
知識の錯覚でとりわけ驚かされるのは,私たちが自分の知識の限界を知ろうとしない,という点だ——知ろうとすれば,いとも簡単にできるのに。あたかも,「空がなぜ青いのか,私にはわかっている」と誰かに言う前に,まずは自分で「聞きたがり屋の子ども」ゲームをやってみて,本当にわかっているかどうか確かめる方がいい。私たちは,錯覚の餌食になりやすい。自分がもっている知識に,疑問をもとうとしないためだ。
クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ 木村博江(訳) (2011). 錯覚の科学 文藝春秋 pp.159-160
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