迷留辺荘主人は,大正14年から昭和3年の間,熊本の旧制第五高等学校の教授というものになり,当時としてはかなりの禄を食んでいたらしい。その時はまだ独身であったから,熊本の地でかなり盛大にお金を使っていたようである。(要するに夏目漱石の『坊ちゃん』の主人公みたいな生活を送っていたのであろう。)
しかし,ひとつ所からもらう給料で全生活をまかなうような生活は,その時が最初で最後だったと思う。五高から戻って,早稲田大学で心理学を教えていた時も講師であったし,そのあともいろいろな学校で心理学を講じていたけれども,ほとんど全部非常勤講師のたぐいであった。まれに「教授」という肩書きを持っていたこともあったかもしれないが,そういう時は,私立大学が文部省との関係で「教授」を置かないと具合が悪いというような事情で,「教授」であったにすぎず,したがって,給料なんぞはごくわずかであった筈だ。そのほか,当時の心理学者というのは,さまざまな役所(たとえば,少年鑑別所とか東京都とか)の嘱託のような仕事をしたりしていたから,そこからわずかの手当をもらってはいただろう。しかしながら要するに全部の給料・手当のたぐいを合わせたって,たいした金額ではなかったと思う。
内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.21
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