迷留辺荘主人は,前述のように,衆を恃むとか群れをなすことが嫌いな人であったが,そういう傾向とも関連して,団体や組織を切り盛りすることなども,あまり好きでなかったし,得意でもなかったように思われる。
もちろん,自分で小さな研究所を主催していたということではあるのだけれども,これは言ってみれば個人商店=パパ・ママストアみたいなもので,事実,迷留辺荘主人の妻は,その研究所で大きな役割を果たしていたのである。
また,最晩年の仕事として,日本女子大児童研究所の主事といったか,とにかく所長のような立場の仕事を何年かしていたけれども,これだって週に2度ぐらい出かけて行って,「皆さんのお好きなようにしなさい」というようなことを言っていたのに違いない。もちろん,こういう言い方は身内の人間の偏見的過小評価の傾向があるかもしれないけれども,迷留辺荘主人の妻などは,「あの仕事は,若く美しい女性に囲まれて楽しいから続けてるんですよ」と公言してはばからなかったほどである。
内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.59-60
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