クレッチマーの学説を知ったあとの父は,「25分法」の結果をクレッチマーの気質類型と結びつけて解釈しようとし続けていたと思う。言いかえれば,クレッチマーの気質類型それぞれに応じた「25分法」の型があると考え,その発見に情熱をかたむけていたように思う。
しかし,クレッチマーの気質類型のある型と,「25分法」のある型とが関連があることはある程度言いえても,両者が1対1的に対応していると考えるのは行きすぎであったと思う。それにこだわり続けることで,「25分法」のさまざまな結果がもつ豊かな情報がずい分たくさんこぼれ落ちてしまったように,私には思える。つまり,その対応の仮設が強すぎたと思うし,その仮説にあてはまらないケースが出て来た場合,そのケースを含みこんだ新しい仮説を作りなおすという方向に向かわないで,またもとの仮設に舞い戻ってしまうのである。「25分法」のデータの研究から機能的に,「内田性格学」のようなものをつくりあげていってもよかったのに,あくまでもクレッチマーの性格学に固執し続けたわけである。それぐらい,父にとってはクレッチマーの性格学は圧倒的な意味をもっていたのだろうし,それは結局クレッチマーの分裂気質という概念によって父自身が救われたことと関係しているのだと思う。
内田純平 (1995). 迷留辺荘主人あれやこれや:心理学者内田勇三郎の生き方の流儀 文藝社 pp.99-100
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