その奇抜すぎる発想のせいで日本では自嘲気味に語られることの多い風船爆弾だが,実際にこの得体の知れない巨大な物体の飛来を受けたアメリカ側の評価は,日本とは正反対だった。戦時中,アメリカ西武防衛司令部の参謀長で,戦後来日して,ふ号作戦の全容解明につとめたW.H.ウィルバー代将という人物が後年,リーダーズ・ダイジェスト誌に「日本の風船爆弾」と題した手記を寄せているが,そのなかでこう書いている。
この攻撃は大したものではないと,人々に思わせようとこちらは務めた。ところが実際には,これは戦争技術における目ざましい一発展を画したものであった。世界で初めて,飛び道具が人間に導かれないで海を渡ったのである。(中略)
もしも夏のひでりの季節となって,アメリカ西武諸州の森林が火つけの火口みたいに乾き切ったころまで,この風船攻撃がつづいていたら,そしてもし日本人が1945年3月にやったように平均1日100個の割合で風船を放流しつづけていたら,さらにまた,彼らが少数の大型焼夷弾をつける代わりに数百個の小型焼夷弾をつけていたら——もしくは細菌戦の媒体でも使っていたら——恐るべき破壊がもたらされていたことであろう。
ウィルバー代将のいうように,ふ号が世界で初めて人間に導かれないで海を渡った飛び道具たりえたのは,2つの要因による。ひとつは巧妙につくられた高度保持装置というテクノロジーであり,もうひとつは,高い気密性をもったこんにゃくという天然素材のおかげであった。
武内孝夫 (2006). こんにゃくの中の日本史 講談社 pp.125-126
PR