昔のこんにゃく農家は生イモを切り干しにして荒粉という長期保存のきく形で蓄え,そのときどきの相場変動をみながら出荷することで大きな利益をあげることが可能だった。昭和30年代ごろまで,こんにゃく産地では「うちはよその半分しかイモをつくらなかったけれど,ムラのだれよりも儲けた」といった自慢話が聞かれたという。そうしたことが可能だったのは,蓄えた荒粉をうまく売ったからである。
つまり昔のこんにゃく産地では,イモをもっともたくさんつくった人がもっとも儲けたわけではなかった。もっとも巧みに売る人がもっとも儲けられる人であり,そこにこんにゃくという作物の大きな特異性があった。南牧村の老人たちが「こんにゃくはおもしれえよ」といったのは,そういうことを意味していたのである。
しかし,火力乾燥機の普及によって農家で荒粉がつくられなくなると,農家はイモ栽培専従となり,利益をあげるには収穫量をふやすしか道がなくなった。それはイモの生産増大をもたらしたが,農家にとって,こんにゃくの魅力は半減した。おそらく火力乾燥機が普及した昭和40年代を境に,農家のこんにゃくに対する向き合い方が変わったはずである。この時期に,生産意欲を失った農家も少なくなかっただろうと推測する。
武内孝夫 (2006). こんにゃくの中の日本史 講談社 pp.192-193
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