思春期を迎える前に去勢された少年は,背が非常に高くなる。現代の私たちにとってはほとんど忘れられた事実だが,4世紀のアテネではありふれたことだった。当時のアテネは地中海じゅうから集められた奴隷で溢れており,その中には去勢された奴隷が大勢いたからだ。またこの事実は,流行の最先端にいた18世紀のイタリア人にもよく知られていた。スカラ座のような大劇場に君臨していたのは,現在のようなテノール歌手ではなく,カストラートだった。彼らの声域,音量,この世のものとは思えぬ美声は絶賛され,なかには名声を得て金持ちの有力者になる者もいた。たとえば,ファリネッリ(1705-82)はスペインのフェリペ5世の御前で歌い,騎士(カバジェロ)の位を授けられた。カファレッリは講釈に叙せられ,ナポリに豪邸を建てた。ドメニコ・ムスタファはローマ教皇の騎士に任ぜられ,終身聖歌隊長になった。ロッシーニも,モンテヴェルディも,ヘンデルも,グルックも,モーツァルトも,マイヤーベーアーも彼らのために作曲した。彼らが歌うと,観客は「Eviva coltello!(カストラート万歳!)」と叫び,恍惚となった。
アルマン・マリー・ルロワ 上野直人(監修) 築地誠子(訳) (2006). ヒトの変異:人体の遺伝的多様性について みすず書房 pp.173-174
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