好奇心をもつ大衆と歴史家にとって,エジソンの交流の使用への反対は彼の怒りを表すものだとされてきた。偉大な発明家は自分の傑作を脅威にさらすような新しい技術を攻撃したように見えた。なぜ他の点では「時代の最も進歩的な人間」が進歩を止めさせようと叫んだのか。その答えは独学の天才の限界としばしば結論づけられてきた。エジソンは交流を理解しなかったから反対したのだ,と。この見解から,エジソンが新しい技術を中傷したのはそれに対する答えをもっておらず,「ただ不公正な戦いが熱心になされた」と結論する歴史家もいた。この結論は,エジソンの研究所が交流の脅威に対して,高圧直流の開発,新たな交流システムの開発,そしてウェスチングハウス社の「死の電流」の信用を失墜させるキャンペーンという3つの対抗措置を講じていた事実を無視するものである。エジソンは交流理論の複雑さを理解するような数学教育を受けておらず,そのせいで取り組みをためらっていたのかもしれない。しかし彼は数学に対して特別な適性をもっていたし,1880年代の交流技術は科学的に複雑といえるほどではなかった。それに彼の研究所にはあらゆる交流機器を開発するための機器と訓練された職員がそなわっていた。たとえばアーサー・ケネリーは非常に有能な電気技師で,後にこの分野を教えるとともに高電圧技術でいくつかの重要な貢献をしている。
アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.128
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