GE社のX線の開発は,エジソンの研究所の運営とあざやかな対比をなしている。GE社はエリュー・トムソンによって開発された機械を徐々に導入するよう進めていったが,すぐそれを販売リストからはずした。X線の問題はそれが制御不能なことだった。最初のX線管の予期せぬ振るまいによってこの技術の有用性が疑問視され,X線にさらされたことによる負傷や死亡の例によってX線特有の危険性が示された。エジソンの助手の1人であるクラレンス・ダリーは放射能の害毒により,ウェストオレンジでの最初の死者となった。GE社の警戒感は市場が小さかったことで和らげられた。大きく改良されたX線管には新しい電球と同じ材料が使われており,そのことがGE社の経営陣がX線装置の製造販売への進出を決断する際の要因になった。同社は1914年にその中心事業で不況を味わって以来,分散化の可能性をいろいろと考慮するようになっていた。第一次大戦中において無線通信の需要がその将来を保証したように,大戦でのX線機器の需要はその実用技術としての将来を保証した。この2つの驚くべき20世紀の技術に利用される真空管を割よく製造することによって,GE社は経営基盤を確立させたのである。
X線にかんして,エジソンは利益もあまり得なければ名声もまったく得なかった。X線の発見後,1896年のニューヨークの電気博覧会でのぞき穴装置を展示するなどこの新現象を利用したが,彼はすぐに次のプロジェクトへと移り,X線についてもう実験作業をすることはなかった。X線を利用する試みは多少はなされたが,エジソン製造会社は病院へのX線機器の販売を1914年以前に終了した。一方は企業的で他方は混沌という2つの開発の道筋の差は,技術産業のビジネスに対する2つの異なるやり方を示している。GE社に成功をもたらした忍耐や警戒心が,エジソンにはまったく欠けていた。
アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.187-188
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