1900年にエジソンは53歳で活動的だったが,彼の健康は衰え始めていた。彼は1900年と1901年に大病をわずらった。若いときに傷めた耳の聴力がますます悪化していた。彼は1906年と1908年に耳の感染症で緊急手術を受けたが,1907年には病状が深刻だったため「すべての商業的事業から引退する」と決心するほどだった。エジソンは商業的な仕事から引退し自分だけの楽しみのためにいろいろな実験に専念すると,事業の支援者や一般の人々に告げられた。1908年に秘書がうかつにも「われわれは研究所ではもう商業的仕事をしない」と宣言するほどだった。
創設者の健康問題は,エジソン企業連合の経営陣に抜き差しならない問題を突きつけた。無秩序に拡大するエジソン産業帝国を,エジソンなしで運営できるような組織に改変していく必要が緊急に生じたのである。エジソンは自分の会社で,取締役会長・発明家・技術者・経理担当といった多くの役職を務めていた。これらの役職の仕事がそれぞれ明確にされ,その部門の日々の運営を維持できる専門の経営者によって継承されなければならなかった。1907年にはウィリアム・ギルモアが各部局の部長を通じて,エジソン企業連合を運営していた。彼の権限は事務棟から蓄音機工場,さらにその先にまでおよんでいた。彼は部下たちを「エジソン氏を煩わせたり悩ませたりせず,賢く抜かりなくやるように」指示した。事務部門の目標は,親方が研究所で忙しい間操業を支障なく維持することであった。
アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.232
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