第一次大戦の時代は,米国にとって社会変動の時代だった。趣味も価値も変化した。禁酒法も若い世代の情熱をおさえつけることはできなかった。大戦後の米国は新しいアイデアの時代であり,女性の裾が上がり紙が短くなったように新しいファッションの時代でもあった。音楽の趣味も劇的に変化した。「愛しのアデリーン」や「銀色の月光の下で」といった感傷的な愛好歌は,「アレグサンダーズ・ラグタイム・バンド」に道を譲っていた。戦時中に南部の米国人が北部の都市へ移住することで,多くの人々がニューオーリンズのスイング音楽に接するようになった。それにはすぐに「ジャズ」という名前が与えられ,北東部の都会に愛好者が現れた。ジャズへの熱狂は米国の新しい好みの一指標だった。
ジャズ流行の市場開拓において,TAE社は競争相手に追従しようとはしなかった。社長がそれを嫌いで,蓄音機の購入者はよい音楽を聴くために買ったのだと誤って信じ込んでいたからである。エジソンは主要な都市におけるレコード音楽の市場とは,まったく波長が合わなかった。彼の愛好歌は「キャスリーン,君を故郷に連れ帰らん」であり,この曲がエジソン社の最も人気のレコードであると主張した。彼の強調点はまだ曲目よりも機械にあった。顧客からは「エジソン社製は機械はいいのだが,レコードの種類が少なすぎる」という言葉が寄せられた。
ビクター社では,録音技術者が大衆の嗜好に自由に従い,聴衆のつきそうな新しい音楽を発掘することが奨励された。ビクター社は,1917年に専属のバンドによって初めてジャズを録音した。同社によるディスク市場の支配は,充実したレコード・カタログによるところが大きい。それは壮大なオペラからジョン・マコーミックら人気歌手による感傷的な歌までを含むものだった。さらにビクター製蓄音機を買えば,横切り溝のレコードを用いていたブランズウィック社やコロンビア社のレコードを聴くこともできた。だがTAE社は山と谷のレコードによって,孤高の位置を保っていた。独特なレコードの形式を守ろうとする決断は,20年代にはたいへんなハンディとなった。時代遅れの基準に固執したことで,TAE社は多くの客を失うことになった。創立者の趣味にはよく合ったろうが,同社はつけを払わねばならなかった。27年には同社のレコードは,レコード総売り上げの2パーセントを占めるにすぎなくなった。
アンドレ・ミラード 橋本毅彦(訳) (1998). エジソン発明会社の没落 朝日新聞社 pp.356-357
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