このような共有環境の本質は「社会的ルール」あるいは「手続き的知識」の学習として一般化されるのではないかと私は考えています。社会的ルールとは,必ずしも法律や礼儀作法に限りません。いわゆる手続き的知識とは一般的に「こういう場合はこうする」という形で実際に行動として表現される知識のことです。何時になったら机に向かって参考書を開いて勉強するといった生活習慣,わからなくなったらきちんと論理を追って考え直すといった認知スキル,これらはある程度ルール化されて学習可能なものです。それが家族で明示的に学ばされる機会があれば(あるいはなければ),それを身に着け(あるいは身に着けられず),共有環境としての効果を発揮するでしょう。
飲酒や喫煙,マリファナなど違法な薬物の習慣に共有環境があるのは,端的にその物質が環境の中にあるかないか,つまり家族やふたごのきょうだいのだれかひとりでもそれをもっているか,あるいは住んでいる地域や家族が関わりやすい人を通じて手に入れやすい物理的環境にいるかいないかが,かなり影響を持つからではないでしょうか。
これがその人の個性や発達障害などの心理的形質と違う点です。家族をおしなべて「外向的」パーソナリティにさせる,あるいはADHD(注意欠陥多動性障害)にさせるために使われる物質的ツールや社会的ルールなど想像できませんが,物質依存は,文字通りその物質があるかないかが最初の決め手となります。もちろん物質に依存しやすい遺伝的素因,依存しにくい遺伝的素因はあります。依存しやすい人は自分から進んでその物質を手に入れようとする傾向が高くなるでしょう。しかしやはりそのものがズバリ目の前にあるかないかにも大きく依存することは想像に難くありません。
安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.144-145
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