私のこの発言を聞いて,私に遺伝差別論者とレッテルを貼る人もいることでしょう。そしてこのようなことを平然と論ずる私のことを,軽率で不穏当だと受けとめるかもしれません。しかし考えてみてください。実は,そのような発想こそが,事実上の人種差別や集団間格差を容認し,助長していることに気がつかねばなりません。なぜなら,「もし知能に遺伝的人種差があることがわかると差別に結びつくから,遺伝的差異はないことにしなければならない」と主張する人は,「実際に遺伝的差異があったら,自分はそれを理由に差別する」という優生的態度に潜在的にとどまっているからです。そしてその主張に固執するかぎり,問題の本質は解決されず,事実上の優生社会,差別社会が温存されつづけてしまうのです。
もし将来的に人種その他の集団間に認知能力をはじめ,私たちの価値観に重要な位置を占める心理的・行動的形質に遺伝的差異が実際にみいだされてしまったとき,私たちは倫理的に対処する術を失います。むしろいかなる心理的,行動的形質に集団間の遺伝的差異があったとしても,それが特定の集団の人たちの尊厳を脅かしたり社会的差別の正当化に結びつかないような考え方と社会制度の構築が必要なのです。少なくともこの議論をタブー視し,価値命題にとっておさまりのよい事実命題を勝手に導き出して安穏としてはいられないのです。
安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.193-194
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