イチローのような仕事とトイレ掃除の仕事とでは,みための魅力という主観的・感情的側面にも,収入という客観的側面にも雲泥の差がある社会に,たまたま私たちは生きています。人が生きているかぎり,遺伝的な条件の差異から生じた能力の差が,その時代社会のさまざまな社会的,経済的,心理的条件の中で,さまざまな偶然と必然の経験の連鎖を経ながら,それぞれの仕事を通じて互いに互いを補い合っています。
だれでも野球をし,トイレ掃除をする潜在能力は持ち合わせているでしょう。しかしアメリカ大リーグで10年連続200安打を達成するような,多くの人々をわくわくさせるようなことをするには,たくさんの特別な遺伝的才能がそろっていることが必要とされます。そして同じように,安い賃金でも誇りと喜びをみつけながら毎日毎日トイレをきれいに清潔に保つ仕事をするにも高度な遺伝的才能が求められます。いずれも生物学的にはだれもがもてるものではない稀有な才能なはずですが,いまの世の中では圧倒的に前者の方が「恵まれた」とみなされるのです。
かくして本来,世の中の様々なところに「ある部分についてそれぞれ遺伝的に優れた人が,それについて劣っている人を助けあう」互恵的関係が目の前に実現しているにもかかわらず,理不尽な不平等がこの世の中に蔓延しているのではないかと思われます。こうなってしまったのには,さまざまな歴史的社会的,心理的,政治経済的理由が交錯しています。また世の中で本当に役に立つ仕事を創発して成功する企業,それまでだれもしなかった仕事を成し遂げて人々を感動させてくれる人は,それまで意識されていなかった互恵的関係に気づき,顕在化することによって,それを成し遂げているように思われます。古来,宗教が「縁」とか「愛」などという概念を通して共同体に共有させようとするのも,行動レベルでは事実上そのとおりにふるまわざるを得ないのに,意識レベルでは多くの人がそれに気づかなかった互恵的利他性を,コトバを通じて無理やり意識させようとした営みではないかと考えられます。
安藤寿康 (2012). 遺伝子の不都合な真実:すべての能力は遺伝である 筑摩書房 pp.207-208
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