1000億のニューロンに150兆のシナプス,様々な神経伝達経路という生理学的特徴は,脳の限りない複雑性を物語っている。ところが精神障害の化学的アンバランス理論は,この複雑性を分かりやすく単純なメカニズムに還元してしまった。うつ病の問題は,セロトニン作動性ニューロンがシナプス間隙に放出するセロトニンの減少によって,脳のセロトニン作動性経路が「不活溌」になることに問題がある。だから抗うつ薬でシナプス間隙のセロトニン濃度を正常なレベルまで上げれば,セロトニン作動性経路は過度にメッセージを伝達するようになる。一方,統合失調症の特徴とされる幻聴はドーパミン作動性経路の過活動によるもので,原因は,シナプス前ニューロンがシナプスに放出するドーパミンが多すぎるか,ターゲットのニューロンのドーパミン受容体の密度が異常に高いかのどちらかである。だから抗精神病薬によってブレーキをかければ,ドーパミン作動性経路の機能は正常に近づく。
これが,シルドクラウトとジャック・ヴァン・ロッサムが提唱した化学的アンバランス理論であるが,シルドクラウトをこの仮説に導いた研究は,それを検証する方法も提供した。イプロニアジドとイミプラミンの研究は,神経伝達物質をシナプスから除去する方法は,次の2つのどちらか,つまり,化学物質がシナプス前ニューロンに再取り込みされて後の使用のために蓄積されるか,酵素によって代謝されて排泄物として運び去られるかであることを明らかにした。セロトニンは代謝されると5−ヒドロキシインドール酢酸(5-hydroxindole acetic acid; 5-HIAA)になり,ドーパミンはホモバニリン酸(homobanilic acid; HVA)になる。だから脳脊髄液中の量を調べれば,それがシナプスの神経伝達物質の濃度の間接的尺度になる。うつ病の原因はセロトニン濃度の低下であるという理論に従えば,うつ状態の人は脳脊髄液中の5-HIAA濃度が通常よりも低いはずである。同様に,統合失調症の原因はドーパミン系の過活動であるという理論に従えば,幻聴や妄想のある人は脳脊髄液のHVA濃度が異常に高いはずである。
ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.107-108
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