最初に降りかかった問題は,精神医学の正当性に対する知的レベルの反論だった。1961年,ニューヨーク市立大学シラキュース校の精神科医トーマス・サズが,その最初ののろしを上げた。彼は著書The Myth of Mental Illnessで,精神障害は医学的問題ではなく,「生の問題」に苦しむ人,あるいは単に社会的に逸脱した行動をする人に貼られたレッテルに過ぎないと主張した。精神科医は,他の分野の医者との共通項よりも牧師や警察官と共通項が多いというのだ。サズの批判に精神医学界は騒然とした。『アトランティック』や『サイエンス』のような主流誌までもが,彼の訴えを説得力のある意義ある主張として受け入れ,『サイエンス』は,サズの論文は「非常に勇気のある啓発的な発言で……大胆で卓越している」と評価した。サズは後に『ニューヨーク・タイムズ』に,「タバコの煙のたちこめる部屋で,私は何度も,サズが精神医学を殺したという見解を聞かされた。もっともそれは私の望むところだったが」と語っている。
彼の著書は「反精神医学」運動の火付け役となり,アメリカやヨーロッパの学者たち——ミシェル・フーコー,R.D.レイン,デビッド・クーパー,アーヴィング・ゴフマンなど——がそれに加わった。皆,精神障害の「医学モデル」に疑問を投げかけ,狂気とは抑圧的な社会に対する「正気」の反応ではないかと問題提起した。精神病院は治療というより社会的統制が目的の施設だという考え方は,1975年にアカデミー賞の各章を総なめにした『カッコーの巣の上で』によって見えるかたちをとり,一般の人々にまで広がった。この映画では看護師長ラチェッドが悪役として描かれ,物語の最後にはジャック・ニコルソン演じるランドル・マクマーフィーが秩序を乱したことを理由にロボトミー手術を施されてしまうのだ。
精神医学が直面した第2の問題は,患者をめぐる競争の激化である。1960年代から70年代にかけて,アメリカでは心理療法が大きく発展した。フロイトが精神分析をアメリカに導入して以来,精神科医の縄張りだったはずの「神経症」患者に,たくさんの心理療法士やカウンセラーがサービスの提供を始めたのである。アメリカでは1975年までに,医師資格を持たないセラピストの数が精神科医よりも多くなっていた。またベンゾジアゼピンが人気を失うと,1960年代に「幸せの薬」に満足していた神経症患者は,傷ついた魂の癒しになるというプライマル・スクリーム療法(原初療法)やエサレン研究所のワークショップ,その他いろいろな「代替」療法に目を向けるようになった。こうした競争も手伝って,1970年代後半のアメリカの精神科医の所得のメジアンは,わずか7万600ドルだった。もちろん当時としては高給だが,それでも医療職では最底辺に近かった。「精神科医以外の精神保健の専門家が精神科の領域の一部,あるいは全部を自分たちの領域だとして権利を主張していた」とタフツ大学の精神科医デビッド・アドラーは言った。「精神医学の死」を憂えるのはそれなりの根拠があったと,彼は言う。
ロバート・ウィタカー 小野善郎(監訳) (2012). 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 福村出版 pp.395-396
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